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ハイクオリティな接客

中国のゼロコロナ政策が終了し、

ようやく入国後の隔離が不要となりました。

この3年間、日中間の行き来は本当に大変なものでした。

しかし、このようなコロナ禍にあっても、

中国へ新たに赴任する日本人は少なくありません。

今回は、中国入国時や中国新生活での小ネタのご紹介です。

 

〇隔離生活の必需品
 入国後の隔離ホテルは、時間とともに随分と

質やサービスが向上したものの、

高級なホテルであっても、

部屋の当たり外れが随分とあったようです。

お湯が出ない部屋、暖房の効かない部屋など様々です。
 到着便が同じ人は、同じホテルへバスで搬送されて、

ホテルに入り、隔離終了日までは、

微信(ウェイシン)でグループチャットを作り、

各種の連絡が共有されます。で、

ある部屋の女性(先に入国した駐在員の家族)から、

毎日1回は、「すみません、ラバーカップ貸してください」

とオーダーが入ります。

ホテル側は部屋に入ることができず、

客は部屋から出ることができないので、

食事やレンタル品は入口に置かれて、

それを受け取るという仕組みです。
女性客:ラバーカップをお願いします。

ラバーカップって、中国語で何と言うんですか?
コンシェルジェ:かしこまりました。

中国語では、搋子(チュアイズ)です。
搋子と聞いても、ラバーカップと聞いても、

ピンと来る人は少ないはず。

辞書かネットで、検索をおススメします。

 

〇ハイクオリティな接客
 中国で都市部では、日本と同様かそれ以上に、

大手スーパーやモールが進出しています。

食品や生活用品を買うには、

不慣れなうちは、日系のスーパーに行くのが安心です。

で、私の友人が、お店に入ったところ、

入口で、複数の店員が、声をそろえて、

ハイクオリティ~!」と言っています。

「お!」っと思って、店の中に入ると、

どの売り場でも、「ハイクオリティ~!」と言っています。

さすが、日系は違う。高品質がスローガンになって、

口をそろえてハイクオリティと言っているんだと感心し、

翌日、出社して、通訳にその話をしてみると、

「あ、それは、ハイクオリティではなく、

歓迎光臨(ファインゴウリン)と言っていて、

いらっしゃいませの意味です。」
 歓迎光臨(ファインゴウリン)、

歓迎光臨(ファインゴウリン)、、、ハイクオリティ。

ちょっと訛っていると考えると聞こえないことはないかもしれません。

 

〇東京から来たって自己紹介したけど
 さて、赴任してまもなく、少し中国語を勉強し始めると、

つたないながらも中国語を使って会話し、

どの程度通じるか試したくなるものです。

初心者が誰もが通る道ですが、

何かとやらかしてしまうものです。


 日本から中国への飛行機の便数が少ない状況下で、

しかも入国が難しい中で入国すると、

それに関する質問を受けることがあり、

私の友人は、「成田空港から来た」と言いたいのですが、

成田空港と言ってもわからない人が

多いことは知っていたので、

「東京から来た」と伝えるために、

「東京(ドンジン)」と答えたのですが、

なぜか伝わらない。発音が悪かったのかと思って、

何度も、「東京(トンジン)!東京(トンジン)!

東京来(トンジンライ)!」と言ったところ、

なぜかクスクスと社員たちが失笑するではありませんか。

そこに、通訳の女性から、

「あのぉ~、総経理。東京は、

トンジンじゃなくて、ドンジン(dōngjīng)です。

トンジン(痛経)は、生理痛のことです。

もうそれ言うのをやめてください。」

 

徐福伝説

徐福(じょふく、シュゥフゥ)は、秦の時代の方士で、

不老不死の薬を求めて、日本に渡ったという伝説の人物です。

方士とは、この時代の天文学、呪術、祈祷、気功、

医薬などに通じた学者で、後の時代には

道教の道士となる職に就いていた人たちです。

秦の時代というから、2200年ほど前の時代です。

古代中国では、神仙思想が強く、修行や霊薬により、

仙人になったり、不老不死になることが信仰されていました。

徐福は、始皇帝に、「東方の三山に不老不死の霊薬がある」

と進言し、始皇帝の命を受け、3000人の若い男女と、

多くの技術者、財宝と五穀の種を持って、

東方に船出をしたが、三神山には至らず、

平原広沢(広い平野と湿地)を得て、王となり、

秦には戻らなかったと《史記》にあります。

史書では、ここまでの記載なのですが、

この徐福が到達した場所として、

根強い伝承が残るのが日本で、

しかも各地に徐福伝説が今も残ります。

今回ご紹介するのは、中でも有名な2カ所です。

機会あれば訪れてみてください。

 

佐賀県 

 金立神社:徐福を祭り、穀物の神、水の神とされています。

しかも、50年に1度だけ開催される例大祭があり、

徐福が上陸したとされる場所から、金立山まで辿った道を練り歩きます。

 

佐賀県佐賀市 徐福伝説:

https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=17

https://www.sagabai.com/main/3776.html

 

和歌山県新宮市

 徐福のお墓と徐福公園:和歌山県新宮市には、

徐福のお墓があります。

徐福にまつわる伝承があったことから、観光振興もあり、

徐福公園という中国風の門を構える公園に整備されています。

 

和歌山県 徐福公園

http://www.jofuku.or.jp/

https://www.wakayama-kanko.or.jp/spots/75/

 

商君書

中国の古典といえば、以前紹介した孔子

言葉をまとめた論語が有名で、孔子孟子

系統の儒教(ルゥジャオ)が、日本では伝統的に学ばれてきました。

しかし、諸子百家と称されるほど、

古代中国には様々な思想や哲学が生まれ、

孔子(コンズ)や孟子(モンズ)とは

相反するような思想も数多く存在します。

 

今回は、諸子百家の中から、始皇帝が中華統一を

成し遂げるのに貢献したといわれる

法家(ファアジャー)の話題です。

法家は、授業のような道徳に寄らず、

厳格な法の制定と運用によって、

国家を統治するというものです(法治)。

ここでいう法治は、西洋或いは日本のように、

権力者の権限を法によって制限する法の支配ではなく、

為政者(皇帝)が、国家、人民を統治するための法という意味です。

現代中国においても、法治という言葉は使われますが、

法の支配よりも法による統治の意味合いが強いのが、

中国の法治の特徴です。

 

 この法家は、始皇帝の時代に最盛期を迎え、

著名な思想家を輩出しました。

商鞅商子)、韓非子がもっとも有名です。

かなりシビアな内容になっていますが、

混乱する中国の戦国時代でこそ生まれた思想であり、

現代でも通用、運用される部分もあります。

商鞅の著書、商君書から民を御する

5つの手法(術)が挙げられています。

  1. 壱民(イーミン):統一的思想を持たせる。
  2. 弱民(ルォミン):国が強く、民が弱いことが国を治める道であるから、民は弱い方が良い。
  3. 疲民(ピーミン):民を疲弊させておき、他のことに関心が及ばないようにする。
  4. 辱民(ルゥミン):自尊自信が無いようにし、相互に牽制、検挙させ、常に生活の中に、怖れを抱かせるようにする。
  5. 貧民(ピンミン):生活に必要なほかは、財産は剥奪しておく。貧すれば鈍す。

 

どうです?日本人から見ると、ブラックですね。江戸時代、

「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」という言葉がありましたが、

それのはるかに厳しい古代中国版ですね。

漢字の書体

 皆さんが、パソコンで普段目にする書体

(フォント)と言えば、明朝体やゴシック体

だと思います。

 MS明朝、MSゴシックのMSは、Microsoftのことです。

漢字が中国から日本に伝わったことから、

時代とともに、様々な書体が作られてきました。

今回は、中国、日本での書体に関する話題です。

 

 古代中国には、各地で様々な文字、書体が存在しました。

これを、秦の始皇帝の時代に、秦の丞相、

李斯(リィスゥ)が、中華統一事業の一つとして、

文字の統一を行いました。この時に、

採用された書体が、篆書体(ジェンシュウティ)です。

 この篆書体、古代の書体で、大変読みにくいのですが、

現代日本人にも意外となじみのある書体です。

例えば、パスポートの表紙に、「日本国旅券」と

書いてありますが、これは篆書体です。

 ほかには、実印やお札でも採用されているほか、

日本史で出てくる「漢委奴国王」の金印、

天皇の御璽も篆書体です。篆書体には、

いくつか種類があり、例えば1万円札の表面

肖像画がある方)は、印鑑用に特化した印篆体

「総裁之印」、裏面が小篆体で「発券局長」と

押印されています。また、印篆体をもとに、

中心から上下左右に太く末広がりになる

吉相(印相)体があり、縁起が良いことから、

会社の実印でよく採用されています。

 さて、この篆書体、読みにくいだけでなく、

書くのはもっと大変です。このため、

古代中国でも徐々に使われなくなり、

篆書体が、単純化・簡素化され、

隷書体(リィシュウティ)が生まれてくる

ことになります。

秦が滅んで、漢が成立すると、公式文書で、

隷書が採用されることとなりました。

隷書は、我々でも読むことができて、

書道の上級者では、学ぶ機会もあります。

 その後、隋や唐の時代となると、

隷書から楷書(カイシュウ)に移行し、

特に、唐の太宗(タイゾン)の時代になると、

より楷書が洗練され、多くの書道家

登場することになります(初唐の四大家)。

この理由のひとつとして、

太宗が愛好していた王羲之(ワンシージー)の書体、

楷書科挙に採用したからと言われています。

 さて、明朝体は、明の時代の文字かと思いがちですが、

そうではないです。中国では、宋の時代になると、

木版による活版印刷技術が発達し、

その活字の書体として採用されたものが宋体(ゾンティ)です。

日本では、中国で宋体(宋朝体)と言われているものを、

明朝体と呼んでいます。宋朝や明朝の朝という字は、

王朝や朝廷を意味します。

日本人は、明や清と中国の国名を1文字で表しますが、

中国人は、明朝、清朝などと朝を付けます。

この流れで、〇朝体という言葉が定着しています。

ちなみに古印体や勘亭流は、日本独自に使われてきたものですので、

中国にはない書体です。

古印体は、奈良時代の寺社で使われていた書体、

勘亭流は歌舞伎で使用される書体です。

 

子曰く(ズゥユエ)

誰もが学校で習う論語の有名なフレーズ、

  • 学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや。
  • 朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。

は、現在の中国人も知っています。

 

三孔とは

孔子は、魯の国、現在の山東省の出身で、

孔子の故郷、曲阜には、三孔と呼ばれる

世界遺産に登録されている観光名所があります。

ちなみに、日本の岐阜県は、織田信長が、

岐山と曲阜から一字ずつ取って、命名されました。

さて、三孔とは、孔廟孔府孔林のことです:

  • 孔廟(コンミャオ)・・・元は孔子の家で、その後、孔子に対する祭祀を行う場所として、皇帝たちによって増築され、現在は宮殿のような壮大な建築群となっている。
  • 孔府(コンフゥ)・・・孔子の直系子孫と家族が住んだ邸宅。
  • 孔林(コンリン)・・・孔子とその一族の墓所。現在でも孔子の子孫であれば死後、埋葬されることができる。

 

孔子の子孫

 中国人の中には、孔という姓の人が結構います。

私も仕事で知り合った方が居て、

孔子の子孫ですか?」と聞くと、

「第77世です」という返事が来ました。

 孔という姓は、今でも十分、知名度、ブランド力あります。

 そして、この孔子の子孫、なぜ何代目かが

わかるかというと、家系図が存在しているからです。

2006年に行われた家系図の調査により、

孔子の子孫として家系図に登録する人が、

中国内と海外の子孫を併せて200万人を超えたそうです。

この家系図は、世界一長い家系図として、

ギネスブックに認められています。

 つまり、孔さんは、世界中に大勢居るのです。

 では、直系の中の直系、嫡流は今も健在なのでしょうか?

 実は、台湾に今もいらっしゃいます。戦前まで、

孔子の直系は、孔府に住んでいましたが、

日中戦争国共内戦の後、第77世が、台湾に移住しました。

 そして、台湾で唯一、世襲の任官である

大成至聖先師奉祀官という職位についていて、

現在は第79世の嫡流の方が就いています。

これだけ子孫が多いと、

傍流の方もそれだけたくさん居て、

逆に直系で嫡流が貴重な存在になっています。

 

 

メンマのことをシナチクと言ってはいけない?

以前、中国の友人と日本料理屋で、

日本式ラーメンを食べていたときのこと。

友人が、メンマを食べて、

「これおいしいけど、何ていう食べ物?」と聞いてきました。

なので、「それはメンマ」って答えたのですが、

「メンマってどういう字?」とまた質問。

日本人と中国人で会話していると、

時々、伝わらない単語がある時に、紙に文字を書いたり、

スマホで入力して筆談で会話を補うことがあります。

その時は、紙に、メンマと書こうと思ったのですが、

メンマという漢字が思い出せない、、、、、、

そこで、別の名前なら書けると思いついて、

書いて見せたのが、支那竹(シナチク)。

と、相手は、急に怒り出し、

「なんで、こんな悪い名前がついてるんだ!」

となりました。その場は、固有名詞だから、

仕方がないと収めたものの、

こういうところは、結構気にするのだと勉強になりました。

ちなみに、メンマは、麻竹を発酵させて乾燥して作ることから、

漢字では、麺麻と書きます。

 

支那という言葉は、現代日本人は、

戦前の中国への呼び方としか認識しておらず、

ほとんどの人は、固有名詞の中に存在しているだけで、

単独で使うことがほとんどありません。

一方、現代中国人は、敏感に反応する人が多いようです。

元々は、始皇帝の秦が語源で、英語圏では、

秦→SINA→CHINAとなり、

漢字圏では、秦→支那となり、

戦前の日本人は、度々変わる王朝名(明や清)と、

中国大陸(支那)を区別するために使用していたようです。

 

 後日、冒頭の会話を中国語の授業で、

話題に出し、差別意識はないが、

いくつか固有名詞として使われている。

例えば、インドシナ半島東シナ海南シナ海、、、

というと、やっぱり先生も不機嫌になり、

なぜそんな言葉を使っているのかと言ってきました。

 あえてそこに触れる必要は無いですが、

日本では伝わった時代とともに、

中国に対する呼称が変化し、

それが現代にも残っている言葉があり、

それぞれの語源まで調べると、

その時代の文化交流や国際情勢などに思いをはせることができます。

 例)

 ・呉服

 ・漢字、漢文

 ・唐辛子、唐揚げ、唐草模様、唐手(現在では空手)

 ・支那竹支那そば、インドシナ半島東シナ海

 

中国史の縮図、諺の宝庫、『呉越燃ゆ』

中国の戦国時代は、春秋時代と戦国時代とに分けられ、

まとめて春秋戦後時代と言います。
それぞれの時代名は、孔子の『春秋』と

劉向の『戦国策』に由来します。

小国が乱立している春秋時代から、

戦国七雄と呼ばれる七つの国が覇権を争い、

秦によって統一されるまでが戦国時代です。

この時代は、現在まで残る様々な諺や思想が生まれた時代です。

今回は、そんな中、春秋時代の後半、

呉(ウゥ)と越(ユエ)の抗争に由来する諺です。

ちなみに、三国志の呉と、春秋時代の呉は、別の国です。

 

呉越同舟
呉の簡体字は、吴(ウゥ)なので、中国語では、

吴越同舟(ウゥユエトンジョウ)となります。

孫子』の中で、呉と越の人は、互いに敵対しているが、

同じ舟に乗って、風で転覆しそうになれば互いに連携し、

助け合うという一節に由来しています。

孫子の兵法で有名な孫武は、この呉越が争っている時代の戦略家です。

今回は、日本漢字(日本語よみ、中国語読み)の順で記載しています。

 

◎登場人物
(そ、チュウ):
 王:平王(へいおう、ピンワン)
 家臣:費無忌(ひむき、フェイウゥジィ)・・・奸臣。

 王:闔閭(こうりょ、ハァルゥ)

 ・・・伍子胥孫武を登用し、春秋五覇までになる。
 夫差(ふさ、フチャ)=父である闔閭の雪辱を果たすが、後に越に敗れる。
 家臣:伍子胥(ごししょ、ウゥジゥシュ)・・・楚の出身。賢臣。
 孫武(そんぶ、ソンウゥ)・・・軍師。斉の出身。

 王:勾践(こうせん、ゴウジェン)
 家臣:范蠡(はんれい、ファンリィ)・・・軍師
 美女:西施(せいし、シーシー)

 ・・・・・范蠡に見いだされ、呉に送り込まれる。

 

呉越戦争の経緯
①楚において、費無忌の策により、平王に父兄を殺された伍子胥が呉に亡命。

 

②呉(闔閭王)が、伍子胥孫武により国力を高め、楚を滅ぼす。
 →この時、平王は既に死去していたことから、

 伍子胥は、平王の墓を暴き、平王の遺体を鞭で300回打ち、

 積年の恨みを晴らした。
 →死者に鞭打つ

 

③呉(闔閭王)は越との戦いに敗れ、息子の夫差に復讐を誓わせる。
 3年の間、夫差は薪の上に寝て、父の仇を忘れないようにした。
 →臥薪

 

④越(勾践王)が呉に攻め込むが、呉に敗れ、会稽山に逃げ込む。
 この会稽山で、降伏した勾践は、夫差の奴隷となり、

 妻を妾として差し出すという屈辱を受ける。
 →会稽(かいけい)の恥

 

⑤勾践は、呉に恭順にしつつ、苦い肝を舐め、会稽の恥を忘れないようにした。
 →嘗胆
 この③と⑤を合わせて、

 臥薪嘗胆(がしんしょうたん、ウォシンチャンダン)という。

 

⑥勾践は、夫差の目を欺き、帰国し、范蠡を用いて、国力を回復させつつ、

 呉の夫差に絶世の美女、西施を献上。夫差は西施を溺愛し、

 政治を顧みなくなる。

 

呉王夫差に、越を警戒するように諫言した伍子胥が、夫差により処刑される。

 

⑧越(句践)が呉(夫差)を滅ぼす。

 

范蠡は、役割を果たしたとして、越を去る。

 この時の言葉が、「狡兎死して走狗烹らる」 

 狡兔死,走狗烹(ジャオトゥスゥ、ゾウゴウパン)。

 そして、斉に移り、商売で巨万の富を築いたという。→陶朱猗頓の富

 

駆け足で呉越戦争と故事成語を紹介しました。

コミックや小説でも呉越の物語は多数ありますので、一読してみてください。

 

参考文献:
史記 呉越燃ゆ』上中下 久松文雄 (画), 久保田千太郎 (作)
范蠡 越王句践の名参謀』立石優著